佐世保小6少女殺人事件に寄せて

ニュ−スの第一報を受けて、「またか・・・」という想いではなく、「現代の少年・少女が抱えている問題だ」とまず感じました。コンピュ−タ−を扱うに当たって、ル−ルやマナ−を大人からの教えられていない状況のまま、各家庭に普及しているコンピュ−タ−を大人顔負けに扱う子どもたち。 

ゲ−ムに飽きたら、コンピュ−タ−で遊ぶ?という感覚で使っています。インタ−ネットでは、ゲ −ムも、お友達との会話もできます。知りたいことは苦労しなくてもすぐに情報が得られます。退屈しのぎにはもってこいの機械なのです。とは言え、コンピュ−タ−の前に座っている日本中の子どもたちに、あのような事件を起こす可能性があるのかと言えば、それは違います。

今回は、あのような事件に結びつかない為に、思春期の子どもたちの心と、親は幼児期にどのように係わっていくのかを考えていきたいと思います。

思春期を迎えた我が子に対して、「どこまで踏み込んで良いのだろう。どこまで干渉して良いのだろう。」と親は悩みます。半人前とはいえ、人格を持った一人の人間です。それまでのようにはいかなくなります。その時期の子どもたちは、「放っておいて。」「かまわないで。」というサインを言葉や行動でたくさん示します。

ある親御様は、「性格が変わってしまったようで、どうしてよいかわからない。」とご相談に来られました。小学校入学と同時に、子どもたちは、親の手を少しずつ離れて、大人に向かって歩き出します。低学年では、まだ幼稚園の延長線上にいるように思っているのは親だけで、子どもたちは少し大人に近づいたような気になっています。行動範囲も他者との接触も幼稚園時代とは比べられないほど広がり、幼いながらに自分の考えを持って行動するようになります。

中学年になると「ギャングエイジ」と言われるように、子どもたちが連んで、まるで小さなギャングの集団のように、いたずらに好奇心を膨らませたり、お友達との関係が密になっていく時期です。そして、「親よりも友達が自分のことをわかってくれる。」「お友達と一緒にいるのが楽しい。」「大人は不可解だ。」などと思い始めるのが高学年です。また、身体の変化とともに異性を意識し始めるのもこの時期です。

「子どもに対して、親は前から引っ張るのではなく、後ろから見守り、子ども自身の足と頭で歩かせましょう。」と懇談会等でよくお話しさせて頂きます。「前から引っ張る親」とは、手出し口出しが多く、子どもの考えを尊重せず、失敗をしないように先回りしてしまう親のことです。「後ろから見守る親」とは、子どもの考えや行動を尊重した上で、子どもの変化を敏感に感じ取り、時には、進路を修正しながら、いつも待ってあげられる親のことです。

例えば、2歳児とお散歩に出掛けたとします。子どもさんを前に歩かせてみましょう。前を歩く子どもは小さな虫や石ころ、自分の目線の届くところにある不思議なものにたくさん興味を寄せることができます。後ろからついていく親は、その興味の対象や感じていることに気づくことができます。そして、何より大切なことは、子どもの歩調に合わせて一緒に歩くことができます。決して急がず、子どものリズムを尊重し、子どもの思いを尊重しながら歩くことができます。前を歩く子どもは、時には石につまずいてこけるかもしれません。でも、その失敗を糧に、しっかりと周りを見る目を育てることができます。

親は、こけた時にどうするのかを見守ることができます。つまずいた原因を考える時間も持てます。泣けば、泣かないように励ますこともできます。次からは気をつけようと促すこともできます。逆に、前から手を引っ張って歩く親の場合はどうでしょう。子どもは、ただ手を引っ張られて、ついて歩くだけで、興味を寄せるものも目に入らない状態かもしれません。「前に石があるから、気をつけるのよ。」と声を掛ける親もいるでしょう。抱っこしたり、手を引っ張り上げて、石の上を安全に通らせようとする親もいると思います。それは、小さな危険や失敗を親の都合によって、回避させていることになります。

思春期の子どもたちにとって必要なのは、手出し口出しをする親ではなく、自分のことを信頼し、 見守ってくれる親です。それまでの生育史において、前から引っ張るタイプの親の子どもは、待って見守ってくれる親の子どもよりも、「親から離れたい。」「放っておいて欲しい。」という気持ちが強いように思います。

それは、当然のことで、何か言えば、10倍にして返されるのであれば、話したくもないでしょうし、いちいち干渉されるのであれば、何も事を起こさないような振りを親に見せておこうとします。自分に起こることを自分なりに対処し、精神的にも解決できる子どもであれば、問題はないのでしょうが、幼い精神発達で、バ−チャルな世界に慣れてしまっている子どもは、誰かに訴えることもなく、助けを求めることもなく、非現実的な世界の中で、自分だけの世界に没頭してしまうのかもしれません。

今回の事件では、加害者の少女から、たくさんの危険信号が発せられていました。非現実的な世界から、現実の世界に向けてサインを送っていたのです。それに気づくことができなかった大人の責任は重いものです。常に見守る気持ちと目があれば、違う結果になっていたのではないか・・・と考えますし、加害者自身の考えや気持ちを受け止め、尊重できる親であったなら、もっと自分に対しても、他者に対しても思いをはせる事ができたのではないでしょうか。

人間が持つ感情というのは、「喜」「楽」だけではなく、「喜怒哀楽」と言われるように、悔しかったり、 悲しかったり、寂しかったりという「怒」「哀」も含まれます。子どもが幼い内は、「喜」「楽」以外の感情を感じさせないように、また、感じているようだと「不憫だ」と感じる親は少なくありません。

「泣く」ことに過敏に反応してしまう親御様はその傾向が強いように思います。しかし、人間が生まれてから、死ぬまで、「喜」「楽」という感情だけで生きていけるわけではありません。赤ちゃんの頃は、言葉の変わりに「泣く」という行為が存在しますが、時には、「濡れたオシメが気持ちが悪い」と感じて泣いている場合もあります。オシメが濡れる前に、先々に綺麗なオシメに取り替えてしまうと、「不快」を感じることができません。それと同じように、失敗をさせないように、傷つかないようにと、先回りしてしまうと、様々な感情を学ぶ機会が奪われたまま成長します。そして、「泣く」=訴えだと捉えると、それに対して大人は何らかの対処をします。それは、コミュニケ−ションの第1歩だと捉えることもできます。

「泣かないように」先回りしてしまうと、コミュニケ−ションを持つ機会が減りますので、他者に無関心な自己中心的な子どもに育ちます。失敗は人生に於いての糧です。失敗をしたり、傷ついたりしながら、様々な感情を感じとり、色々な状況下での対処の方法を学んでいきます。たくさんの感情を感じている子どもは、様々な状況下で、他者の気持ちを思いやることができます。「こういう時は、『ごめんなさい』と言うのよ。」と親から言われて、納得して「ごめんなさい。」が言える子どもは、痛かったり、悲しかったという経験をしているからこそ言えるのであって、経験する前に方法(「ごめんなさい。」という)を教え込まれた子どもは、自分の気持ちを主張することもなく、「イヤだ」と拒絶することもできず、様々な感情を感じることなく育っていきます。

今回の事件で、加害者がもしも誰かと(被害者も含めて)深いコミュニケーションを持つことができていたら・・・、相手の痛みに思いをはせることができていたら・・・、 そうしたら、バーチャルな世界と現実との堺を彷徨うこともなく、自己主張や依存することが自然にできていたのではないかと思います。


幼児期の親子のかかわりにおいて、最も大切なことは、「親子が共感し合い、一緒にたくさん笑う経験をすること」です。日々の生活に追われ、世間の目を気にすると、子どもの言動を受け止めることができないばかりか、「ダメ」「早く」という否定や命令が多くなりがちです。そんなとき、ちょっと「楽しいことをしよう!」と心がけると、親子の温かいふれあいになり、愛情が深まり、情緒が安定し、それらによって、他者とのコミュニケーションもうまくとれるようになるでしょう。そして、お母さんは「心の基地」となり、外では様々な出来事が起こっても、安住の場は「家庭」になります。

今後加害者の精神鑑定が行われ、また新しい事実も出てくるでしょうし、何らかの病名が発表されるかもしれません。しかし、殺人を実行するか否かは別にして、子どもたちの周りでは、トラブルが起きることは当たり前のことですし、トラブルを通して、たくさんの経験をし、人生の糧としていくのです。