子どもを無条件で受け入れる

最近「できること」「してほしいこと」を求め過ぎて、お子様の本来の姿を受け入れられなくなっているお母様が増えているように思います。

核家族ゆえに、広いつながりがなく、横のつながりの 中だけで、「あそこがこうするならうちもしなくちゃ」「あの子ができているなら、うちもさせなく ちゃ」と、自分のお子様よりも、他児を見て子育てをされているような感じです。そして、「させ ないと不安」「できないと不安」という気持ちが膨らみ、お母様自身も横のつながりの中で四苦八 苦されていますし、それによって、お子様達も親の勝手都合の世界の中で右往左往させられているような状態です。

どのお母さんも第一子は、初めての子育てです。未知の世界に足を踏み入れ、雑誌や育児書からヒントをもらいながら、手探り状態で子どもと向き合います。愛しているからこそ一生懸命に向き合います。

そして、愛しているからこそ、少しでも「幸せ」に育ってほしいと願います。その「幸せ」 というのがくせもので、人によって価値観が違っています。例えば、お勉強や運動ができることが 「幸せ」と思う親もいれば、人に無い特別な才能を持っていることが「しあわせ」だと思う親もいます。人様に迷惑を掛けない優しい子に育つことが「幸せ」、少々横柄でも人の先頭に立ってリ−ダ−シップを発揮できることが「幸せ」、出世できないよりは、できた方が「幸せ」、お友達に恵まれることが「幸せ」---等々様々な「幸せ」に対する価値観を持って子育てをされています。

これは、お母様自身が育ってきた過程で身につけた価値観なので、個人個人で考え方が違っていて当たり前なのです。但し、「まあ、これぐらいでいいか。」と広い枠組みを持って育てられるお母様がいらっしゃる反面、「こうでなきゃ!」と強く、狭い枠組みを作って子育てをされているお母様もいます。

ある面は前者であって、ある面は後者である、という混合タイプもいらっしゃいますが、どういう事に枠組みを持つかによっても子どもの育ち方が違ってきます。「元気で伸び伸びと育ちさえすれば良い」と思うのと、「お勉強はできた方が良い、お行儀もよい方がよい、おまけに活発な子に育ってほしい」と思うのでは、子どもに対する要求の度合いが違ってきます。この枠組みを、早くから、また、強く作ってしまうお母様の場合、どうしても許容範囲が狭くなりがちで、今の子どもの本来の姿を見ずに、先ばかりを見て子育てをする感が強くなります。そこに、お母様の横のつながりの影響が加わりますので、益々子どもたちは苦しい状況に追い込まれていきます。

また、お母様が自分のようになってほしくないからと、子どもに自分にはないものを求めてしまうこともあります。例えば、自分は水泳が不得意だったから、子どもはスイミングスク−ルに早くから通わせる、自分は大人しくて人前でものも言えないタイプだったから、他の子どもにやられてくる子どもが許せない・・・等々自分と違うタイプの人間像を子どもに求めることがあります。その時にも、今の子どもの姿ではなく、もっと成長した姿を思い描いて子育てをするので、今の子どもの目線や感じ方や考えに思いを寄せられないことがあります。

このような状態になると、子どもの成長と親の係わりがうまく交わらず、一方的になりがちで、おまけに現代は子どもの数が少ない為に、お母様の思いが分散されにくいために、一人の子どもに対して強い枠組みが作られることが多いように思います。

大切なことは、子どもはお母様とは別の人格を持った人間であるということです。確かに愛情を持った親に育てられる子どもですが、自分とは別の人間であることを心の隅に置いてみると、同じようにならないから、思うようにならないからと、腹が立ったり、イライラする事が少し減り、我が子の成長をゆっくりと見守る気持ちを持てるのではないでしょうか。

子どもは、大人と違う感覚・考えを持っていてるのですが、小さい内は、お母様の所有物のような存在であるので、どうしても、子どもなりの姿に目が行きにくいものです。少し言葉や手を止めて待ってみると、見えてくることもありますし、違う感じ方をしているものだと思えば、「こんな時何を感じて(考えて)いるのだろう」と一歩下がって子どもの姿を見ることができるものです。

親が作った枠にはめられている子どもは、自分は受け入れられていないと感じることがあります。 「どうして、本当の姿を見てくれないの」「どうして、気持ちをわかってくれないの」ということが積み重なると、寂しい気持ちを何とかして埋めようとします。叱られることが多くて機嫌が悪いだけでなく、寂しい気持ちをわかってほしいからと、反抗的な態度をとることもあります。親に自分のありのままの存在をしっかりと受け止めてもらえない子どもは、いつも寂しさを抱え、心のバランスをとって生きているので、他者の言葉を素直に受け取れないこともありますし、自分の心をさらけ出すのも苦手です。このよ うな状態で成長すると、所謂非行や引きこもりを起こすこともあります。

今はまだ幼い我が子でも、成長と共に、個性がはっきりしてきます。短所も長所も合わせ持った一人の人間です。親は、幼いうちは、「できる限り短所が無い子どもに」とも望みます。けれど、ちょっと考えてみると、全く短所のない人間などいるのでしょうか。また、ある人から見れば長所だけ別の人から見ると「許せない」部分であったりもするのです。

時と場合に因ることもあります。大人の中には、自分の短所について、「性格なんだから、しょうがないじゃないか」と開き直る人もいるかもしれませんが、どこかで気づけたなら、努力して直そうとしたり、別の部分でカバ−しようとする人の方が、人間としては素敵なのではないでしょうか。そして、我が子も成長したら、自分なりにカバ−していくと思えば、今目くじらを立てて、四苦八苦する部分は減らないでしょうか。他児と比べたり、先走って心配ばかりするよりも、少しゆったりと、見守る目や気持ちが持てないでしょうか。お小言を1つ言うよりも、一緒に笑い合えるお話を1つしてあげた方が、子どもは健やかに育つでしょう。一緒に笑うことは難しくても、頭ごなしでなく、一緒に考える時間が持てるかもしれません。一緒に考えることは、子どもを信頼しているからこそできることです。一方的でなく、どうすればいいのかを一緒に考えて、「手伝ってほしい」「助けてほしい」「任せて欲しい」ということを区別させましょう。その区別ができ、それを口にすることができたなら、子どもの要求に応えてあげるのが、親というものではないでしょうか。

まだ生まれて数年の子どもたちは、これから先の方がずっと長いのです。これからもお母様が子育てをしていくのですから、お母様のお気持ち次第、お考え次第で、子どもの成長が変ります。そして、親と言えども、子どもの寝顔を見れば、反省することもあっていいのです。突き進むよりも、ちょっと立ち止まって振り返ることができれば、それでいいのです。振り返ったことは、翌朝の笑顔になるでしょう。また、日々小さな事の積み重ねができること、それは言い換えれば、親は親なりに、子どもを通して、我慢したり、努力して、人間として成長していくことなのではないでしょうか。