子どものこだわり

 ●新聞の記事から
 ある日の新聞の記事から(現在78歳になるお母さんが昔を想い書かれたエッセ−です)
「あと一匹」
 もう40年あまりも前のことだ。
 その頃、愛媛県の海水浴場の海の家に仮住まいしていた。門限は6時としていたのに、学校か ら帰るなり釣竿を持って飛び出していった小学2年の息子は、6時半になっても帰ってこない。
 だいぶ薄暗くなって心配になってきた私は、ついに我慢ができず、玄関の鍵をかけてしまった。
 7時前になって「お母ちゃん、あけて、あけて」とドンドンと戸を叩く音。10分ばかり放っ ておいた。外で「ウワ−ン、ウワ−ン」と泣いている。
 もういいだろうと戸を開けて、「こんな時間まで心配させて」と叱ると、「お魚が3匹釣れたの もう一匹釣れたらお父ちゃんとお母ちゃんと裕子ちゃん(妹)と僕と一匹ずつ食べられると思 ったのに、4匹目がなかなか釣れなかったの。」と泣きじゃくる。やっと釣れて走って帰ってきたら閉め出されていたと、大粒の涙をポロポロ。
 小さいバケツの中にはコチの子が4匹泳いでいた。私は熱いものがこみ上げた。子どもにもそれなりの理由はある。今後は頭ごなしに叱るまいと誓った。その息子も今は1男1女の父とし て・・・・

これを読んで思うことは、かつての日本にはそこここに自然があり、その自然と共に子ども達は、色々な経験をしながら育っていたということ。

そして、小学2年生の子どもに、家族の一員である という自覚があったということ。

そして、幼い子どものこだわりや思いやりを知って、自分を振り 返り反省をしたお母さんがいたということ。

現代ではどうでしょう。今の子ども達を取り巻く環境は、物は豊かに、便利になり、40年前 と比べれば生活面は恵まれているのかも知れませんが、反面、失ったり、気づかなかったり していることが非常に多いような気がします。
 
この子が持っていた家族への想い。おそらくこの家族は貧しかったに違いありません。けれど、家族の一員として、様々な現実、また、気持ちを知っていたのでしょう。コチが一匹釣れたとき「今日の晩ご飯が釣れた!」、2匹釣れたとき「おかずが増えた!」、3匹釣れたとき「もう一匹釣れたら、家族みんなで一匹ずつ食べられる!」と、お母さんの喜ぶ顔を思い浮かべ、ワクワクしながら、 一生懸命に釣っていたと思うのです。時がたつのも忘れて・・・そしてこの子は門限を破ってしまいました。

子ども達が取る行動には、どんなに幼くても「それなりの理由」があります。泣くことにも怒ることにも笑うことにも、必ず何らかのこだわりや理由があるのです。そこに気づくことのできる親は、「待つ」ことができます。そして、一方的に叱ることが減り、逆に誉めることが増えるかもしれません。

そのこだわりを認めてもらっている子は、お母様に受け入れてもらっているという情緒面の安定があり、遊びの中や、自分の生活の中にも色々なこだわりを持ちます。「どうすればよいのだろう」「どうなるのだろう」といった「考える」また「思いめぐらす」事ができるようになります。

逆に、 「どうして、理由も無いのに泣く(怒る)のかしら」「変なところにばかりこだわって・・・」と 子どものこだわりや理由に気づけないでいると、段々「泣く(怒る)」行為自体を親が理解できなくて、「泣く(怒る)と叱ってしまう」といった悪循環になったり、お母様が不安になることで、 子どもも不安な気持ちを持つことになります。

けれど、そのこだわりや理由といったものが、大人の感覚では「えっ、そんなことだったの?!」 ということも少なくありません。だからこそ、気づきにくいし、辛抱強く見守る姿勢が必要になるのです。

また、そのこだわりや理由が、社会を生きていく上で「ちょっと、おかしい」ものであることが、年齢が上がってくると出てきます。その様な場合は、「その理由は〜だから通らない」ということを伝えていかなければ、社会性が伸びないという場合もあります。

例えば、記事の男の子が遊びに夢中になっていて門限を守れなかったとしたら、それは、家族のル−ルを守れていないことになります。でもそこで、頭ごなしに叱ってしまうと「その考えが間違っているのよ」 ということが、伝えられないままになり、子どももただ「叱られた」という気持ちしか持たないことになるでしょう。
 
ある年長児のクラスで「春休みにいっぱい遊んだね。春休みに楽しかったことの絵を描こう」という授業をしました。春といえば「花」。春の花といえばチュ−リップと桜。女の子達は、チュ−リップをたくさん並べて描き始めました。

それを見ていた男の子は、桜の木を描き始めました。同じ花の絵なのですが、その子の絵はちょっと違ったのです。その子のこだわりは「桜の木の幹に生えているタンポポ」でした。「ねえ先生、どうして桜の木にタンポポが咲くんだろう」「僕が見た桜の木からタンポポが咲いてたんだよ」一生懸命その時の状況を説明しながら描いていました。

「きっと、お母様がこの子のこだわりに気づき、何かお話して下さったのだろう」と思いながらその子の説明を聞いていました。大切なのは、この子のこだわりが「どうして」という気持ちに結びつき、その「どうして」にお母様が反応することによって、春の思い出が「桜に咲くたんぽぽ」になったということです。

お母様がその絵を見たときに「よく覚えてたね。」と言ってくださったかはわかりませんが、もし、その言葉があったとしたら、「自分のこだわりを大人が認めてくれた」という満足感と自信をそのは得ることになります。

親からすれば、遊園地にも連れて行った、公園でもあんなに楽しく遊んだ、なのに、春の思い出が桜に咲くたんぽぽだとすれば、肩すかしをくらわされたような気持ちになるかもしれませんが、子どものこだわりというのは、そういったものです。

桜の幹のタンポポを見つけた時、「不思議だね」というお母様の反応が無かったとしたら、その子の思い出は違ったものになっていたかもしれませんし、言葉は無くても、じっとそのこだわりを一緒に見つめてあげただけで、その子の春の思い出になったかもしれません。

子どものこだわりに対して、一緒に見つめる、言葉を投げかける等なんらかの反応を示すことは、そのこだわりを受け入れることになります。受け入れてもらったこだわりは、次のこだわりをみ、より細かい所へのこだわりを持つようになります。

それが、生活面でも反映され、他者の気持ちを理解したり、 自分の状況を判断したりといった精神面での発達も促します。また、細かいところへのこだわりは、当然学習面にも反映され、探求心・好奇心を伸ばします。

時には、変な所にお母様の方がこだわって、言葉を投げかけてみましょう。「わ〜っ!変な桜の木み〜つけた!桜の木にタンポポが咲いてるよ!」といった感じで・・・。そのこだわり(発見)に反応を示 さない子は、ひょっとすると、こだわりを受け入れてもらってこなかった子かもしれません。
 
  2002/5/17 ぴーすらんどタイムズ掲載