情緒が安定し、自発性が発達し、適応能力が備わって知的能力が伸びていきます。簡単な例で言えば、さっきまで出来ていたことが、お母さんに叱られたばかりに出来なくなってしまった、というようなことです。情緒が安定していない子は、まず落ち着いて人とやりとりが出来ませんし、不安でしょうがないので、新しいことにチャレンジしようという気持ちが沸いてこないのです。栄養のある土に種をまかないと、植物が成長しないように、子どもにも心の栄養をいろいろな方向から沢山与えてからでないと、学習面は伸びてきません。

将来的に知的能力を伸ばすためにはまず幼児期に5感を磨くことが大切です。そのために1歳児クラスであればそのために歌を唄い、体全体でリズムをとり、絵本を通じて沢山お話をしてあげます。

また切る・貼る作業、粘土遊びやお絵描きをし、雨が降れば、窓から空の様子を見ながらお話しし、積み木遊びでは、投げたり、並べたり、積み上げたり、倒したりして遊びます。その間、ずっと子どもと沢山の会話のやりとりを楽しむのです。

まだまだ1歳児の言葉の発達を考えると、やりとりというのは難しいように感じますが、まずこの頃の子どもは模倣の時期ですので、先生が、「あ、ポツポツと雨が降ってるよ。」と言えば、子どもは「ポツポツだね。」と片言で返します。また、先生が、積み木を高く積むと、嬉しそうに倒しにやってくるのです。まさにそれこそがやりとりであって、その時間を楽しめることこそ、次に何があるのだろうという気持ちにつながっていくのです。

ある幼児教室では、一方的に先生が子どもに対し、カ−ドなどを使って、授業をしているようですが、幼児期の子どもたちにとって、与えられるだけの授業は意味がありません。どんな小さなこだわりも見逃さず、先生と子どもが一緒に追求していくからこそ、知的な欲求が育つのです。また、話し合う中で、言語能力が伸びます。

自分の考えを理論立てて、説明する能力が育ちます。また、お母さんと違った働きかけをしてもらうことで、考える幅が広がります。
ある子どもがお絵描きをしながら、「お月様は黄色だから、黄色で描こう。」と言いました。先生は、「そうかなあ、本当に黄色かなあ、先生には、ピンク色に見えるときもあるけど・・・。」と言っても、いつもお母さんから「お月様は黄色でしょ。」と言われている子は、納得できません。

「ひょっとすると、ピンクに見えることもあるかもしれないから、お母さんと一緒に見ててごらん。」とだけ、伝えておきます。次の週その子は、お部屋の中に飛び跳ねるようにやってきて言いました。「あのね、先生。お月様はやっぱり黄色だと思うけど、なんかピカピカしてるの。それでね、全部黄色じゃなくて、黒いところもあってね、一番びっくりしたのはね、だんだんやせてくるんだよ。」と。

これこそが、学習の原点ではないでしょうか。一方的に与えられるだけでは、新しい発見も、驚きもありません。幼児期の子どもの学習にとって一番大切なことは、学習=遊びでなければならないということです。ぴ−すらんどでは、一人一人を判断し、カリキュラムを組むので、必要であれば、1時間粘土に費やすこともあります。但し、その1時間の粘土遊びの中に、沢山の発見や驚きを体験してもらおうとしています。

粘土遊びをしながら、「へびへび、どっちがながい?」「せんせいのおだんごとどっちがおおい?」と算数に通じる言葉がけをしたり、「春にできるイチゴを作ろう、先生イチゴ大好きなの。」と、理科に通じる言葉がけをします。数の概念の理解がついてくれば、「このイチゴを5つのせるお皿を作ろう。」といって、量に対する推測する力をつけます。

子どもは、プリント問題に向かっているわけではないので、楽しい気持ちのまま、沢山のことを無理なく吸収していくのです。楽しければ、集中力も付きます。ちょっと、無理かなと尻込みするようなことにも、チャレンジしようとします。但し、1時間粘土遊びをする理由をお母さんが理解できないと、ぴ−すらんどの授業は成り立ちません。

そのために、毎回お帰りの時、3ヶ月に1回の懇談時、子どもに何か変化が見られたときなど、常にお母さんとお話をする体勢をとっています。お母さん自身が、子どもとのかかわり方を理解し、接し方の重要性を認識されますと子どもは急速にいろいろなことができるようになり、表情は落ち着き、生き生きとしてきます。

早期教育というと、きちんと机に向かって、早い時期から学習をすることと思われがちですが、ぴーすらんどでは、おかあさんと一緒に子供の成長を見つめ、こどもたちは先生と一緒に新しい発見を繰り返し、将来的に伸びていくためのベースづくりに時間を費やします。心も頭脳もこの時期に大きな器作っておくことこそが大切なのです。器が大きければ、いくらでも知識を注ぎ込むことができ、どんどん吸収していきます。

間違った早期教育が世の中にあふれ出すようになって、字が読めたり、書けたりする子が非常に優れているかのような錯覚をされている親が増えて、ろくにお絵かきもしない子にせっせとひらがなを何度も何度も書かせて覚えさせているお母さんのことを耳にします。

また、字が読めないことに不安を感じて、ご相談を受けることも多くなりました。まず、昔は、字が読めて、書ける時期がちょうど小学校へあがる時期でよいと考えられていたので、それまでの間、子どもたちは外にでてたくさん遊んでいました。年上の子は、年下のこの面倒を見ながら、どうしたらみんなが楽しく遊べるかを工夫し、年下の子は、年上の子に負けじと一生懸命話を聞き、同じように行動しようとしたものです。

家へ帰れば、現代ほど便利な生活ではありませんでしたから、いろいろとお手伝いを命じられたものです。当然テレビなどもまだまだ普及していませんから、子ども同士、子どもと大人の会話の量は現在よりもずっと多かったでしょうし、ものが少ない分、人と人とのつながりは強かったように思います。

また、本は大切な遊び道具でした。そのような環境の中で、自然と語彙が増え、手先の巧緻性が増し、運動能力もつき、やっと小学校に上がって、お兄ちゃんやお姉ちゃんと同じようにひらがなを習うことができたのです。そんな子どもたちにとっては、字を習うことがなんと新鮮なことだったでしょう。現在は、ほかの能力はさておいて、幼稚園に入園するやいなや、お母さんは必死にひらがなを覚えさせようとします。

日頃小言ばかりのお母さんが、急に優しくなって、横に寄ってきたと思えば、鉛筆を持たされ、何度も何度も同じ字を書かすのです。「あ」と「お」を間違えようでもしようものなら、「どうして覚えられないの」ということになります。もっとひどい場合は、「どうしてまっすぐに線が引けないの。」です。お母さんは、線1本引くにも、指、手首、肘、腕、肩の動きがスムーズでないと、引けないことを知らないのでしょう。それはそうだとしても、ついには「どうしてお母さんの言っていることがわからないの。」となります。こどもにすれば、「だって、いきなり難しい言葉を並べられても、言っている意味が分からないんだもの。」と言いたいに違いありません。

情緒が安定し、適応能力が付いてくると、子どもは人のお話をちゃんと聞くことが出来るようになって来ます。そういう子どもは語彙が段々と増え、言語力伸びてきます。言葉によるしつけができるということも語彙力が優れてきたことを意味します。言語力が伸び、少しずつ複雑なことが理解できるようになっていくと、子どもの視点自体が複雑になっていきます。

例えば、それまでは、すべて丸と理解していたものが、円と球体があるというようなことがわかっていくということです。前出した月の話にしてもそうです。黄色一色だったものが、少し黒い部分もあるよ、といった細部に注目が行くようになるのです。そうなると、「わ」と「ね」と「れ」の違いを説明したときに、その部分に自分で気づいていくことができるのです。余談にはなりますが、絵本が大好きな子どもは、親が放っておいても、だいたい勝手に字を覚えてしまいます。「好きこそものの上手なれ」です。

このように、子どもたちはバランスよくいろいろなことができるようになって、はじめて1ステップ階段を上がることが無理なくできます。そして、その「バランスよく」こそが、優秀児に育つ第1歩なのです。いくら、いろいろなことを知っていても、お友達とうまくつきあうことができなければ優秀児ではないのです。